「より早く、より軽く、より安全に」は、使用価値になります。より早くなどの姿勢で仕事に臨むことは、使用価値を重視していると言われています。仕事に臨む場合、より早く,より軽く,安全に行うことが無意識的に行われているようです。一方、ユーザーが満足感と判断される価値は、貴重価値とか魅力価値と呼ばれます。より美しくより可愛いなどは、ユーザーがそのモノを得られる満足感で判断される価値になります。使用価値も貴重価値も、必要なものと思われます。でも、使用価値だけでも貴重価値だけでも十分ではないことも分かりつつあります。そのヒントが、便利な方式より不便な方式のほうが,人の能力低下を防ぐケースがあることにあります。いわゆる不便益を探していると、手間ばかりかかるのですが、ある人々にとっては便益であることがたくさん見つかるのです。今回は、使用価値と貴重価値の両面から、ビジネスの方向を考えてみました。
今の家庭には、電気掃除機が必需品になっています。強力な吸引力を持つ掃除機が、家電製品として購入されてきました。でも、ある消費者は、岩手県九戸村の高倉工芸の南部箒を選びます。長柄が3万~10万円になる南部箒を買うのだそうです。南部箒は無農薬の天然素材を使い、絨毯でも掃除機以上にほこりがとれるといいます。使う方は、夜遅く帰宅しても掃除機はかけられないが、箒は静かにできるという利点を述べています。吸引力の強いダイソンの掃除機より、高級箒(南部箒)が東京などの大都市部で人気を集めています。デザイン性の高い高級箒で行う掃除の時間が、それ自体価値があるというのです。人は便利さ、速さだけではなく、密度の濃い時間の過ごし方も求めるようです。所有欲のモノ消費の時代が過ぎて、体験欲のコト消費を迎えています。そして、この次にくるのが、その時やその場でしか味わえない充実した時間の消費という貴重価値だというのです。
ビールの世界にも、速さを求めないスローに貴重価値を置く考え方が浸透しようとしています。長野県軽井沢町に、クラフトビール大手のヤッホーブルーイングがあります。このヤッホーブルーイングは7月、お酒の飲み過ぎを防ぐビアグラスを発表しました。このビアグラスは、飲みづらいことにこだわっています。この飲みづらいグラスは、砂時計のように中央にくびれに特徴があります。「香りと味わいをゆっくり楽しめる」内径6ミリトルのビアグラスを作成したのです。お酒の飲み過ぎを防ぐビアグラスには、中央にくびれがあるためガブガブと飲めないのです。ガブガブと飲めない時間をかけた飲酒は、肝臓への負担も軽いとされています。飲みづらいグラスを通じて自分のペースで飲酒を楽しむ人が増えれば、楽しいことですし、さらに健康に良いという状況が生まれます。この飲みづらいビアグラスは、限定10個で抽選販売されました。価格が9800円と高めながら、「応募が約2700件と予想以上の反響があった」ということです。このグラスの開発者には、自分のペースで飲酒を楽しむ人が増えれば、ビールファンのすそ野がこれまで以上に広がり、ビジネスチャンスが広がるという狙いもあるようです。
アルコールに関した余談になりますが、厚生労働省は適切な飲酒量の判断に役立ててほしい「飲酒ガイドライン」の素案を、2023年11月に策定しました。その素案から、「健康に配慮した飲酒に関するガイドライン」を2024年2月19日に公表したのです。このガイドラインは、「飲酒に伴うリスクに関する知識の普及の推進を図るため、国民それぞれの状況に応じた適切な飲酒量・飲酒行動の判断に資するもの」となります。たとえば、1日当たり、女性は20グラム以上を摂取した場合に生活習慣病のリスクが高くなると注意しています。ちなみに、20グラム相当の純アルコール量は日本酒1合、ウイスキーのダブル1杯、ビール中瓶1本などが目安になります。男性は、40g以上を摂取した場合に生活習慣病のリスクを高めるとしています。より具体的には、1日当たりの摂取量として脳梗塞が男性40グラムで、女性の場合が11グラムで発症の恐れが上がるとしています。厚労省のガイドラインの公表により、酒類大手で高アルコール飲料の販売を見直す動きが加速しています。お酒の世界の外を見ると、健康志向を背景にあえてお酒を飲まないソバーキュリアスというライフスタイルも広がってきています。これは、Sober(しらふ)とCurious(好奇心が強い)を組み合わせた造語になります。これからは、新しい消費者のニーズに合せたサービスを開発し提供できるお店が繁栄する時代になったようです。この時代への対応の一つが、ヤッホーブルーイングのお酒の飲み過ぎを防ぐビアグラスということになるかもしれません。
消費者に接近しすぎると、飛躍的発想は生まれません。消費者に接近しすぎると、モノやサービスの改善が多くなり、大きな飛躍が後回しになります。問題解決の手段は、社会全体視野に入れた観点から、そして歴史的視野から常に模索する時代になっています。アルコールの世界に、この転換点が現れているようです。アルコールを含むお酒は、なぜ飲まれるのでしょうか。この答えは、心地よさを求めるからということになります。人間は、脳の報酬系が活性化されると快感を覚えます。報酬系は、脳の1つの場所にあるものではなく、様々な機能を持った脳のネットークから成り立っています。この報酬系には、普段神経が働いてブレーキをかけているのです。アルコールは、神経が制御している報酬系のブレーキを弱らせて、ドーバミンを分泌させる作用があります。ドーパミンの分泌は、ヒトに快感をもたらします。人類は、この快感を求め続けてきました。「酒は百薬の長」とお酒を称賛しながら、酒文化を享受してきたわけです。
でもここにきて、様子が変わりつつあります。厚生労働省だけでなく、世界保健機関(WHO)も本格的にかかわってきているのです。2022年の報告によると、飲酒関連の死亡者は世界で年300万人超える数字になります。飲酒関連で死亡した人は、世界中の死亡者のうち、5.3%を占めるまでになりました。亡くなった方の多くは、アルコール依存症に陥っていた方ということになります。5.3%という死亡率は、先進国で問題になっている糖尿病の2.8%をはるかに上回る死亡率なのです。ちなみに、エイズによる死亡者が100万人で、マラリアによる死亡が43万人です。いかに、アルコール依存症の影響が大きいのかが理解できます。この問題には、各国も対策を取っています。さらに、興味深いことが起きています。約9兆円の資産を運用するノルウェー最大の年金基金組織が、アルコールやギャンブル企業の株式を売却し始めました。年金を運用する組織は、いろいろな株式や債券を組み合わせながら、基金を増やすように運用していきます。年金受給者は、運用効率を高めてもらい、手取りを多くして欲しいわけです。でも、効率的運用一辺倒では、満足しない年金受給者も増えてきています。いわゆる「罪ある会社を」を除外する風潮です。ノルウェーでの暴力事件の半数以上は、アルコールが関係しているといわれています。アルコール関連の社会的費用は、推計年間2200億円に達しています。これは、社会的に負の要因になっています。将来にわたって、社会が安定的に発展することの障害になると判断したわけです。投資が収益だけでなく、持続可能な社会の発展につながるようにする方向に動いている事例になります。アルコールの世界では、使用価値を重視する流れが、強くなっているのです。とは言え、このような流れに逆らう人達もいるわけです。アルコールに貴重価値を求める人たちの存在です。
最後になりますが、人間は、非効率な行動や非合理的な行動を取りやすいようです。一方、社会からの要請は、合理的で素早い行動が求められます。普通、ロボットは人の労働を代替して、人の負担を軽減するという意味で便利なものになります。工場の中で仕事を正確に自律的にこなすロボットが、現在は主流です。多くの人にとって、ロボットは、速く、正確で、疲れを知らずに作業をするものという固定観念があります。でも、世の中には、変なロボットもいるのです。ある科学者が、役に立たないロボットを作ったのです。このアイ・ボーンズというロボットは、ガイコツをかわいらしくしたような動きをする実にぎこちないロボットです。このロボットにティッシュ配りをさせると,実に効率が悪く、ティッシュが渡せません。アイ・ボーンズのテイッシユ配りは相手とのタイミングがつかめないのです。このロボットを見た人は,アイ・ボーンズに逆に吸い寄せられて、ティッシュを受け取りに行きたくなります。人は、アイ・ボーンズのおどおどしたぎこちなさに逆に吸い寄せられていくのです。速さや便利さの使用価値、そして楽しさや満足をもたらす貴重価値、この矛盾する社会の要請と人間の特性をミックスした製品やサービスが、新しいビジネスのモデルになるかもしれません。