日本が、半導体産業で世界を席巻した時期がありました。この勢いに米国は、ブレーキを掛けます。結果として、韓国の基幹産業である半導体産業を、日本の装置メーカーや材料メーカーが支える構図ができていました。半導体産業では、装置や材料に強い日本と、製造に強い韓国は相互補完の関係を築きました。その日本が、2019年に半導体素材3品目の対韓輸出管理を厳しくしました。するとそれに反発した文在寅政権は、対抗姿勢を強めました。日本依存度の高い素材や装置分野で、韓国の国産化を推し進めたのです。国産化を推し進めた結果、一部の汎用素材で代替は進みました。でも、国産化を推し進めたのですが、最先端半導体に不可欠な素材や装置の開発や量産には至らなかったという現実が残りました。時の政権によって揺れ動く日韓関係の中にあっても、サムスン電子は日本の素材企業や装置企業と関係を継続してきました。民間における隠れた努力により、2019年の日本政府による対韓輸出管理の厳格化でも、日韓の半導体供給網は命脈を保つことができました。日韓両国には、少子高齢化の問題やエネルギーの安定確保などに、同じような課題が山積しています。1つの国より2つの国の知恵を出し合った方が、課題解決には近道になるものです。そのような視点から、日韓の現在、過去、未来を眺めてみました。
日本の戦後の経済成長は、韓国の国内事情に起因していることがあります。1945年8月の日本は、焼け野原でした。その日本が、経済成長のきっかけになった年が1950年でした。1950年6月25日、北朝鮮軍は南北の軍事境界線である北緯38度線をこえて南側に侵攻しました。ソ連製戦車で奇襲をしかけた北朝鮮軍は破竹の勢いで進軍し、開戦4日日にはソウルを占領したのです。北朝鮮軍の猛攻は続き、一時期は半島南端の釜山付近まで迫りました。国連安全保障理事会は、直ちに北朝鮮の攻撃を侵略と認定し、韓国支援を打ち出しましたのです。米軍を中心に国連軍が組織され、1950年9月の仁川上陸作戦を機に、反転攻勢に出ました。国連軍はソウルを奪還し、平壌を陥落させ中国国境に迫りました。この事態に呼応するように中国が北朝鮮を支援して参戦しました。中国国境から、国連軍が推し戻され、戦闘は泥沼化し、38度線を挟んだ攻防が続くという状況になり、現在の38度線が暫定的に決まったわけです。この朝鮮戦争は、敗戦後の疲弊した日本に大きな影響を与えました。米軍は、軍需物資などを主に日本で調達しました。日本の経済には、まさに神風でした。朝鮮特需は日本の経済復興のきっかけとなり、鉱工業生産は戦前の水準にまで回復したのです。ある意味、日本工業の復活が、米軍の軍事補給を円滑にし、韓国の国土を守ったという経緯も考えられないことではありません。
お話は、現在に戻ります。貿易統計を見る限り、サムスンなど韓国企業は日本製の素材や装置を使い続けたことが分かります。サムスン電子などの半導体メーカーは、日本の製造装置や精密材料を購入し、半導体を量産することができました。でも、進化を続ける半導体産業においては、世界との競争に直面しています。最先端半導体の開発や量産技術の確立のためには、外部企業との密接な研究活動が必要不可欠になっています。ソウル郊外のサムスン華城キャンパスは、半導体部門の頭脳といえる研究施設になります。華城キャンパスには、日本の製造装置メーカーや材料メーカーの技術担当者の姿が頻繁に見られます。東京エレクトロンやキャノン、村田製作所などの技術者が、次世代の半導体の開発に知恵を絞っています。サムスン電子は、各工程の製造装置メーカーや精密化学原料メーカーと細かな改善策を積み上げているのです。韓国社会は、この数十年間で日本よりもずっと速く様々な発展を成し遂げてきました。2020年の一人あたりGDPは、購買力平価換算で、日本が4.2万ドル、韓国が4.4万ドルでした。フロー次元でいえば、もはや日本と韓国には差はないか、韓国が上回る状態にまでなっているのです。この経済成長の源は、朴正照政権時の漢江の奇跡によるものです。
日本の経済と韓国の経済には、アキレス腱があります。それは、化石燃料が自給できない点です。エネルギーを輸入に頼る体質は、日本も韓国も共に持つ弱点になっているわけです。もし、このアキレス腱が解消されれば、よりスムーズに経済の成長が保障されます。そんな美味しいお話が、実はあるのです。日本は、石油依存が高まり95%を中東へのから輸入しています。海外から輸入は、LNG(天然ガス)も97.7%(2019年)、石炭も99.5%(2019年)になります。資源に乏しいと、ほとんどの日本人認識をしています。でも、日本には、一気に中東並みの産油国になれるだけの石油資源が眠っているのです。この中東並の超巨大海底油田があるのは、「第7鉱区」と呼ばれる場所になります。「第7鉱区」は、沖縄県の北、九州南西の東シナ海にある海底油田です。第7鉱区の原油埋蔵量は、1000億バレルと推定されています。1000億バレルは。世界第2位のサウジアラビアの3分の1に相当する埋蔵量です。さらに驚くべきことは、第7鉱区のある大陸棚全体で天然ガスの埋蔵量は、約175兆~210兆立方フィートになります。この175兆~210兆立方フィートは、サウジアラビアの10倍の埋蔵量なのです。ここが開発されれば、日本は石油輸入国から輸出国になることも夢ではありません。日本の海には、サウジアラビえる超巨大海底油田があるというわけです。
甘い蜜があるところには、人々が集まってきます。1970年1月、当時の韓国の朴正照大統領は突然第7鉱区の領有を宣言しました。当時は、海の境界線が国と国の等距離の中間線ではありませんでした。海の境界線はなく、領土の自然な延長である海底の大陸棚を根拠としていたのです。大陸棚が境界線とされた場合、韓国は第7鉱区をほとんど独り占めできたのです。この境界線説は、1969年に国際司法裁判所により下された北海大陸棚事件の判決が基準になっていたのです。朴正照大統領は、この基準により領有を宣言したわけです。この宣言は海底の大陸棚説を根拠としていたため、日本側は不利な立場に追い込まれました。でも、当時の韓国には単独で油田を開発できるような技術がありませんでした。国際社会でも韓国側の主張が有利とされる中、日本は韓国に対し共同開発を提案したのです。日本は韓国に経済援助を行っていたため、経済援助の停止など外交カードを使ったようです。結果、韓国側が日本の提案に乗り、1978年に日韓大陸棚協定を締結しました。
日本側は、協定を締結した後の1980年代に「採算がとれない」との理由で、開発を中断しています。協定を締結した後の1980年代から、現在まで進展はありません。なぜ、この7鉱区の原油の採掘が、すぐに始まらないのでしょうか。理由は、2つあるようです。2000年代になれば、海底石油開発の技術は、日韓の会社も保有するようになってきています。原油の採掘はすぐに始まらない理由は、韓国との協定があるためです。韓国が独自開発する技術はあるようですが、日本側が動かないため何もできないのです。日韓大陸棚協定により、第7鉱区の単独開発はできないという制約があるのです。もう一つは、日本側へ有利な風が吹いているからです。日本への追い風は、1985年のリビア・マルタ大陸棚事件になります。リビア・マルタ大陸棚事件を契機として、新たな国際基準できました。大陸棚自然延長説が古いものとなり、等距離の中間線が世界標準となりました。向かい合う2国間においては海の境界線は中間線を根拠とすることが国際基準となったのです。新世界標準によると、50年の協定期間満了後には第7鉱区は日本のものとなります。協定期間満了後(2028年)には第7鉱区はほぼすべての領域が日本のものとなるわけです。協定期間満了後には、第7鉱区が日本のものとなるため、日本政府は現在も動いていないという説があります。韓国は「日本に資源を独り占めされる」と、日本側のやり方に反発しています。争いになれば、物事は前に進みません。1978年に日韓大陸棚協定に基づいて、両国が協力して第7鉱区の開発を行うことが望ましいようです。資金も技術もある両国が、知恵と工夫を出し合えば、世界有数の産油国になることも夢ではないのです。
最後になりますが、日韓の経済や文化スポーツをより密接にすることが、慰安婦や徴用工の問題を抑制する道になるかもしれません。そのひとつの切り口が、世界遺産になります。日本と韓国は、ワールドカップの合同開催をしました。これにならって、2026年のワールドカップは、アメリカとメキシコ、そしてカナダが同時開催することが決まりました。ワールドカップに同時開催があるならば、世界遺産にも二国間に渡る遺産があっても良いと考えてしまいます。その格好の場所は、対馬と壱岐、そして釜山になるのではないでしょうか。釜山と対馬のラインには、自然環境に共通点があります。氷期の時代、対馬や壱岐は海面が低下しており、朝鮮半島と陸続きでした。対馬と壱岐では、朝鮮半島と共通の生物種が観察できるのです。弥生時代から古墳時代にかけて、朝鮮半島から多くの文化や人材が日本に移住してきています。その文化や帰化人が、日本文化の礎になっていることも事実です。日本も韓国も世界の産業に果たす役割は、大きなものがあります。この2ヵ国の繁栄に導いた地域が、世界遺産になることはある意味で喜ばしいことです。石油も観光も、そして日韓の友好も同時に成就したいものです。