日記に楽しそうな内容を書いた修道女たちは、ネガティブな修道女より10年近く長生きしたというお話があります。健康だから幸福なのではなく、楽しいから、幸福だから、健康という側面も人間にはあるようです。この楽しさや幸福には、決まった形やパターンがあるわけでもないようです。仕事を続けて体験できる楽しさよりも、仕事を辞めてできた余暇に楽しさを見出す人もいます。お金はあったほうが良いのですが、その上でもっと大切にすべき楽しさもあるという人もいます。甘い昧だけが良い味なのではなく、コーヒーの苦みや渋みなども、昧の楽しさや豊かさになるようです。この楽しさを上手く味わうためには、意図的であることや計画的であることで、確実に享受できるようになります。今が楽しくないのは、ずっと以前に楽しさの種を蒔かなかったことに原因があるようです。楽しさを形づくるためには、ある程度準備期間をかけて、学習とか訓練も必要だと言われるようになりました。その楽しさが、精神的な健康だけでなく、身体的な健康にも大きな影響を与えることが分かりつつあります。もし、楽しさを社会システムとして、自由自在に作り出すことができれば、いつまでも健康な生活を送ることが可能になるかもしれません。今回は、この楽しさ、幸福の獲得についての挑戦してみました。
慶応義塾大学などの研究チームは、「幸せホルモン(オキシトシン)」の減少により、動脈硬化が促進されることを発表しました。「幸せホルモン」の減少が、動脈硬化を促進させることを動物実験で分かったと発表したのです。以下は、実験の概要になります。同じ母親から生まれた兄弟マウスを単独飼いと4~5匹のグループに分け、12週間観察しました。単独飼いのマウスは、グループのマウスと比べてオキシトシンの分泌量が少ない状況になりました。この結果でしょうか、単独飼いのマウスは血中の中性脂肪や悪玉コレステロールが上昇して動脈硬化が進行したのです。肥満や糖尿病などの発症要因は、これまで詳しい仕組みは分かっていませんでした。ただ、経験則的には、孤独でスキンシップが少ない人は、オキシトシンの量も少ないという報告はあったのです。この面での研究の結果、オキシトシンの減少が、肝臓の脂質代謝異常を招いて、動脈硬化が促進されることが分かりました。オキシトシンが、肝臓の脂質代謝を制御する働きを持つことも新たに分かったというわけです。この「幸せホルモン」が、悪玉コレスフロールを腸に排出して、減少させる働きを持つことも分かったのです。このような実験や経験則から、社会的なつながりのない孤独状態は、精神疾患の他、肥満や糖尿病などの発症要因となることが次々に報告されるようになりました。
新型コロナウイルスの蔓延時期には、他者との交流が減少し、社会的孤独が問題になりました。1人暮らし世帯の増加などで、社会的な孤独の問題が浮上した時期でもあります。この問題は、単にコミュニケーション仲間が減ったというだけではなかったのです。社会的な孤独が、脳の視床下部から分泌されるオキシトシンの量が減少させることが明らかになりました。このことが、精神的なデメリットだけでなく、身体的デメリットを引き起こすことが明らかになってきたわけです。社会的なつながりを豊かにすることが、動脈硬化の原因となる脂質異常症の予防に重要だということも分かってきました。デメリットが分かれば、それをメリットに変えていけば良いわけです。政府も、官民で総合的な幸福度と満足度の指標を策定するようになりました。心身が良好な状態について、科学的な知識を得るように指導するようになりつつあります。実際に幸福な状態を体験することで、この理解は深められていきます。幸せな世界をつくる人になるには、今使えるイノベーションを利用することになります。
幸せな世界を手に入れるには、どのようにすればよいのでしょうか。そのヒントが、理化学研究所のチームによって提示されています。理化学研究所の村山正宜リーダーらは楽しい思い出が記憶に残りやすい仕組みを解明しました。この研究チームは、脳が楽しい記意を睡眠時に強化する仕組みを発見したのです。楽しい思い出が長く続けば、幸福ホルモンの分泌量は増えます。これが増えれば、心身共に健康な生活が可能になるわけです。以下は、その実験の経過です。研究チームは、雄のマウスを対象に、雌と過ごした体験を「楽しい記億」と位置づけて脳の活動を調べました。男女の出会いは、楽しいものです。その楽しい記憶は、いつまでも残るものです。雌と過ごした雄と雌と過ごさない雄のグループに分けました。ノンレム睡眠のときに、雌がいない環境で過ごした雄と比べ、雌と過ごした雄の扇桃体の活動が活発となることが分かりました。雄は雌と出会ってから5日が経過しても、遭遇した当時の環境を思い出していたのです。この行動は、雄は雌と出会ってから5日が経過しても、過去に雌がいた場所を探索する傾向があったのです。雄のマウスにも、未練があったのでしょうか。ノンレム睡眠をすると、雌がいない環境で過ごした雄と比べ、大脳皮質の働きを高め、長期記憶に関わる大脳皮質の働きを高めていたことが分かりました。深い眠りであるノンレム睡眠をすると、感情に関わる偏挑体の活動が活発となりました。この感情を伴う体験は、睡眠時に特定の神経回路を刺激して記憶を強化していたわけです。
この実験では、楽しさだけでなく、その楽しさを消す実験も行っています。雄の楽しみを求めた探索活動は、睡眠時に扇桃体の活動を人為的に抑えると、楽しい記憶を短期間で忘れることも分かったのです。楽しいや「怖い」などの体験は記憶に残ることの詳細な仕組みは、いまだにわからないところが多くあります。楽しいや「怖い」などの記憶は、忘れないような脳の機能があります。生存や種の保存に関わるものは、忘れないように選択的に記憶を強化する仕組みが脳に備わっています。楽しいや「怖い」など体験は、動物が生存や繁栄をする上で有利な情報を含むことが多いのです。扁桃体は、この機能を司ってもいるわけです。扁桃体はポジティブな感情のほか、恐怖や不安といったネガテ心ブな感情にも関わっています。楽しいや「怖い」」などの体験は記憶に残り、長い時間が経過しても思い出すこができます。研究チームは、つらい体験にも同様の仕組みが働いているとみています。楽しい探索活動は、睡眠時に扁桃体の活動を人為的に抑えると無くなりました。それでは、ネガティブな探索活動を抑制することも可能になるかもしれません。嫌な思い出、楽しくない思い出を減らすことができれば、もしくはなくすことができれば、幸せホルモンを多く分泌する仕組みを作ることができるわけです。研究チームは、睡眠中に扁桃体や関連領域の活動を抑えることで嫌な記憶を消去できるかどうかを検証しています。扁桃体や関連領域の活動を抑えることで、依存症や精神疾患などの予防・治療法につなげることも行っています。楽しい体験をした後の睡眠が、精神疾患や依存症の予防や治療法の研究につながる可能性が大いにあります。今後は老化マウスを対象に楽しい体験をさせて記憶を強化できるか検証するようです。これが、人間にまで波及すれば、老後もハッピーな生活を送ることができるようになるかもしれません。
余談ですが、ウェルビーイング(Well-being)に対する社会的な関心が高まっています。ウェルビーイングは、幸福とか幸福感と訳され人生の満足度や充実感、ポジティブな感情を意味すると理解されていまます。このウェルビーイングは「幸福」とも訳せますが、同じ意味の幸福(Happiness)とはニュアンスが異なるようです。ハピネスは「瞬間的」に幸せな心理状態という捉え方になり、一方ウェルビーイングは「持続的」という意味でとらえられるようです。最近の診断技術は進歩し、個人の幸福度をかなり正確に安定して測れる自己診断の手法が確立されています。この手法を使う企業が、社員の幸福感を高めて、業績を上げるケースも増えているのです。社員が束の間の幸福感を味わうたびに、ポジティブ感情が生じて、創造性と革新性が高まり、それが業績に結びつくという好循環が生まれているわけです。企業や経営者がハッピーで上機嫌な職場をつくれば、病欠も減り医療費も減少することも分かってきました。一方、幸福度の低い社員は病欠も多く、他の社員よりも成績を上げることが少ないと評価されるようになってきています。幸福度や楽しさの溢れる家庭や学校、そして、職場や地域社会で生活できれば、より幸福度の高い生き方ができるようになるかもしれません。
最後になりますが、今の日本社会が幸せではないことが多いことが世界に知られています。ウェルビーイングについては、この10年で注目度は高まっていますが、日本での認知度はまだまだ低いのです。政府でも、このことについては、真剣に対策を取る姿勢を示すようになりました。省庁の活動も含め、産学官が連携して、ウェルビーイングの流れを推し進めているようです。その一つの現われが、大学で「幸せ」を学ぶ動きが広がっていることです。産業界などもウェルビーイングの向上に動き出しており、その要請を大学側も応えているわけです。政府も民間企業も、おして地方自治体も、人々を幸せにする経営者や地域の人が幸せになる街づくりのプロを育てたいとの現われに見えます。でも、このことを真剣に考えていくと、大学に入ってから学ぶのでは遅すぎるようです。より以前の小学校や中学校、そして高等学校にも広げていくべきだという結論に到達します。幸せに生きることがいかに大事かを、小学生の時から体験していく環境整備も必要になるようです。