生活を楽しくする読書と書く作業  アイデア広場 その 1609

 

 読書好きの方には、本の中毒というものがあるようです。いったん読み始めると、止まらなくなるのです。人の声をうわの空で聴いて、後で困ることになるようです。もっとも、読書は人間に考える力をつけさせることも多いのです。いったん本を読み始めれば、好奇心はどんどん旺盛になっていきます。本を「なぜ?」「どうして?」と考えながら読めば、それだけ考える力が磨かれるようです。アウトプットを意識すると、より上質な読書ができます。アウトプットしながら、誰かに情報を発信することは、自分の中で知識を整理することにもなります。課題を取り上げて読んで書くときには、そこに新たな解決策が見出されるケースも増えてきます。どんな形でも、解決策がでてくれば、楽しいものです。一つの課題に取り組んでいると、その課題作成に使わなかった素材の中から、次の課題の素材が、1~2ぐらいが見つかることもあります。この素材を温めていると、これが次の種になり、種が芽を出し大きくなり、次の課題になっていくことがあります。読書と書くことが、永遠に続くサイクルになっていくことも楽しいものです。今回は、この楽しさを探ってみました。

 読まない人には、書く神様はやってこないと言います。どんなすばらしい考えも、書きとめておかないと、忘れて取り返しのつかないことになります。書いている時に、随時、情報が手元にあれば、円滑な作業が成立します。でも、情報が揃っていない時に、文章を書いていると、情報を探しては、再度もとに戻って書き直すという非効率な作業になります。また、情報の確認に時間がとられることも、マイナス要因になります。本や新聞などのアナログ情報は、情報を絞り込んだ編集者がおりフィルターを通過した情報になります。これは、一定の確実性を備えた情報になります。これが、手元にあれば、すぐに文章作成に使えるものになります。インターネットなどの情報は、フィルターのない野放しの情報で正誤の判断に時間が必要になります。必要な時に、必要な情報を取り出せるツールを持つことも大切になります。探すことに、エネルギーを取られないスキルを整えておくことも、必要なことになります。

 蛇足ですが、このスキルに「活性エネルギー」に関することがあります。書く作業へ、スムーズに入るにはコツがあります。取り組みはじめる時には、『活性エネルギー』と呼ぶ初期努力が必要なのです。このエネルギーは、物理学用語で反応を起こすために最初に必要なエネルギーのことをいいます。惰性を打ち破って、書く作業に取り組みはじめるためには、一定量の活性エネルギーが必要になります。書く作業をしようと気持ちを決めてから、資料を集めたり、ノートを出したりすることには、活性エネルギーを多く使っていることになります。書く作業をしようと決めて机に座ったときには、全て揃っていることが求められるのです。読んだり書いたりする行為は、自由が基本です。私事になりますが、書く時間や場所を決めて、強制的に行うことが多いのです。すると、書く量が増えるだけでなく、独創的なアイデアも次々に出てくるから不思議です。書くことによって、知的備蓄や精度が増していくことが実感することもでてきます。強制的なスケジュールに沿って書くことも、案外楽しいものです。

 世の中には、いろいろな欲求というものがあります。その欲求が満たされれば、それはそれで満足という状態になります。でも、欲求不満が残るなら、それも悪くはないのです。欲求不満は、不満足や消化不良、そして疑問をもたらします。人間は、それらの不満や疑問を解明し解決することエネルギーを使う動物のようです。不満や疑問が、考える力や考えたいという気持ちを与えてくれるわけです。脳はこれまでになかったこと、やったことのないことに直面すると、活性化するという特性を持っています。たいていの欲求というものは、好奇心を満たすことで満たされるものです。その欲求を満たした「モノ」や「コト」が、時間がたつと飽きてしまい、楽しさを感じなくなってしまいます。そして、次の疑問や不満に立ち向かう動物が人間というわけです。読書と書く作業は、この人間の欲求を満たすツールと言えるものかもしれません。脳の一部である扇桃体は、好きとか嫌いとか、心地よいとか不快とかあらゆる感情を仕分けしていきます。扇桃体から放出される報酬系の伝達物質が、ドーパミンです。自分がだんだん賢くなってくると、それは快感になってきます。楽しむうちに覚えることが面白くなり、そして脳はイキイキするようになります。ドーパミンは、記憶力を高め、心地よいという気持ちや達成感、やる気を生み出すわけです。読書と書く作業を継続する中で、徐々に知識が蓄積し、その出し入れもスムーズになります。知識の出し入れがスムーズになれば、自分の視野が広がり、深まっていくことが自覚されます。すると楽しくなる物質であるドーパミンが分泌されます。そんなサイクルが続けば、楽しい生活を送ることができます。

 日本の学校教育のお話しになります。日本の学校教育は、「ゆとり」と「学力」のせめぎ合いという流れで続いてきました。戦前に主流だったヘルベルト教育の知識注入型授業から、戦後まもなくのアメリカ流の問題解決型へ移行していきます。この問題解決式学習が円滑に進まず、1950年代からの系統主義による知識重視の方向へ変換していきます。1970年代後半になると、再びつめこみ教育の見直し「ゆとり」教育へ移行していきます。そして現在も、ゆとり教育を見直し、知識重視型と問題解決型のせめぎあいが続いている状況にあります。「ゆとり」の学説では、詰込みは悪いとされてきました。でも、悪かったのは詰め込みではなく、詰め込み後の知識の使い方を教えなかったことだったのです。知識の詰め込み後に、知識の使うスキルを、多くの先生が駆使できなかったことに問題があったのです。いわゆるインプットした知識を、状況や課題に応じてアウトプットする訓練の経験が足りなかったというわけです。もともとの知識がない限り、良いアイデアをアウトプットすることはできません。まずは上手に知識を、インプットする方法を身につけることになります。上手に知識をインプットした後、知識や経験の保存や貯蔵をよくするために復習をします。保存や貯蔵をよくするために知識や経験の出し入れをしながら、特にアウトプットのトレーニングをすることに磨きをかけることになります。

 余談ですが、日本では多様性が求められる分野が増えています。でも、創造性やアイデアの出にくい分野が、あちこちに散見されるようになりました。その一つが、アカデミックな世界になります。日本のアカデミックな世界は、専門があまりに細かく分かれすぎるようになりました。研究者は専門分野の研究にばかり目を向け、ほかの領域との交流を避ける傾向があります。自分の分野にあるルールからはみ出したり、ルールを変えたりしてはいけないという考え方が主流なのです。ふつうは、決められたルールがあって、それに沿って仕事をすれば良いわけです。そして、決められたルールを守るとことはもちろん大切なことです。でも、現実に即して、「おかしい」と思うことがあれば、ルールそのものを見直すことも必要になります。自分の研究の成果が、どういう意味をもたらすのかという視点をもつことが大事になります。世界はすでに総合科学、総合学問の時代に入っています。日本は、総合科学、総合学問の時代にまだ踏み出していないようです。研究の成果が、人間の営み全体での位置づけがどのようなものかという視点に重点を置いてほしいものです。

 最後になりますが、腹一杯の食欲を満足させることが、人類の本源的幸福と言われたことがあります。でも、強欲な人間は、食べることだけでは満足しないようになります。フランスの哲学者であるパスカルは、「人間は、自然のうちで最も弱い一本の葦にすぎない。しかしそれは考える葦である」と述べています。人は考えて、考えたものを書いて現すという楽しみを持つと言っているようです。ある意味で、表現することに、楽しみを見出したというわけです。書くことの楽しさを知った人間は、書くために考えます。材料がないと、書くことができません。適当な文章を書くには、適当に本を読むことが必要です。読んで考えて、書き出すわけです。書くからには、書いた文章が自分でも分かるようにしたいわけです。でも、なかなか満足する文章が書けません。1年くらい前に書いた文章を、たまたま読むときがあります。すると、間違いが嫌というほど出てきます。その時、満足の反対の不満足になります。それでも不思議なことですが、何年か書いていると、間違いが少なくなるのです。ちょっと、満足する気持ちになります。余裕が出てくると、以前より、少し良くなっていることに気が付きます。これが、私の欲求を満たす楽しさになるようです。

タイトルとURLをコピーしました