面白い生活を続ける知恵  アイデア広場 その1531

 夢中になっている時には、時間の流れというものも忘れることがあります。本を夢中になって読んでいる時、自分の名前を呼ばれても気がつかないといったことは、私一人だけではないようです。こんな「夢中」という現象を、調べた研究があります。チクセントミハイという社会学者は、「夢中」になった状態について詳細な研究を行ったのです。ダンサー、チェス、ロッククライマーなど、自分の行為に夢中になっている人を調査しました。そこには、ある類似した現象が見られました。それは、以下の点になります。夢中になっている時には、「周囲の出来事を意識しなくなること。今やっていることに注意がすべて集中され、邪魔になる他の刺激には注意を向けなくなること。何かに夢中になっていると、知らない間に長い時間が経ってしまっていること」などです。本当に楽しんで何かを行っている時には、その行為全体が流れるように進んで行くという特徴です。一方、この流れの中で、ふと自分を客観的に見た時、この夢中の状態は中断されてしまうということでした。チクセントミハイはダンサーなどが繰り返し使用した「流れるような」というこの現象を「フロー」と名付けました。これは、スポーツマンが集中している時によく使うゾーンという言葉もこれに近いものになるようです。

 この没頭した状態になるには、いくつかの要素があります。その要素は、目標や自主性、適度な難易度、そこから生じる面白さや楽しさがあるようです。目標は、ないよりもあった方が面白いものです。さらに、目標を自分で立てさせた場合、目標を与えられた場合に比べてより面白いものです。自分の行動を自分で決めた時に、モチベーションが上がることも経験的に分かています。でも、人間は我儘な動物です。目標をいとも簡単にクリアできてしまった時には、面白くなくなってしまうのです。反対に、あまり難しすぎて目標にまったく近づけなかった時には面白くなくなります。目標と自分の能力とのぎりぎりのところに、ほんの小さな「ズレ」がある時に面白さや楽しさ、そして没頭という境地が生ずるわけです。もう少しで目標に達するが、達せなかったという目標に最も高い面白さを感じたという経験をする人は多いのです。最近のゲームは、この点を良く取り入れています。ポケモンGOは、こちらの個々の能力に合わせた課題を自動的に提供できるように作られています。このようなゲームに、のめり込んでいくことは、理解できることです。ゲームの目的は、ちょうどよい難しさを体験することそのもののようです。でも、このようなゲームのやりすぎは、弊害をもたらすことも良く知られていることです。

 知るという行為には、好奇心が働きます。知的好奇心には、特殊的好奇心と拡散的好奇心に分類されています。特殊的好奇心は知識を深めるためにあり、広散的好奇心は興味の範囲を広げることにあります。特殊的好奇心はある特定の新しく、暖昧さのある対象について情報を集めたいという傾向を持っています。目の前のわからないものを理解するために、情報を集めることに務めるわけです。この集めることを、「収束」といいます。技術の進歩は、この収束を支援するツールで満ち溢れています。たとえば、ネットで一度検索したものについては、その関連情報がどんどん送られてきます。関連情報がどんどん送られてくるAIによるサービスは、ある面で便利なものです。収束的な好奇心は、AIの便利な機能によって満たされます。これらの便利な機能には、不足しているものもあります。それは、広散的好奇心に対する配慮です。広散的好奇心には、退屈な時に驚きや新しい情報を求める傾向があります。AIでは、新しいものを求めるという拡散的な好奇心が十分に満たされることはないようです。

 夢中や楽しさ、そして好奇心をテーマにする場合、遊びを抜きに語ることはできません。オランダの歴史家、ホイジンガは「ホモ・ルーデンス」の中で、人間の本質は遊びにあると言っています。ホイジンガの考える遊びとは、4つの特徴があります。1つ目は、遊びの目的は行為そのものにあります。2つ目は、ある決められた時間・空間内で行われる自発的な活動です。3つ目は、緊張と歓びの感情を伴うものです。4つ目が、日常生活とは「別のもの」という意識があるということになります。これらが、あらゆる文化の基礎となり、その断片は今も残存しているというものです。たとえば、裁判における裁判長のカツラなどは、その一つというものです。一方、遊びの反対に位置する仕事は、つらくて面白くないものの代表とされることが多くなります。仕事は自分の欲求を犠牲にし、その見返りとして報酬を得ることが基本的な構造になります。でも、この仕事にも、遊びと同じような没頭とか夢中になるときがあります。仕事に集中し、夢中になっている時には、それが面白いものになる可能性が出てくるから不思議です。もっとも、遊びの目的は行為そのものにあるという立場から見れば、納得のいく現象かもしれません。また、他人の欲求を満たすことそのものが、自身の欲求になった場合に、面白さが生じるようです。このことから、仕事がお金を得るための手段でなく、仕事をして人に喜んでもらうこと自体が目的になるケースが生じるわけです。この場合でも、「ズレ」の原則は適応されます。難しすぎる仕事はできる限り避けたいし、簡単すぎる仕事がつらいということは、ここでも真理ということになります。

 この面白さをもたらす「ズレ」を起こしやすくするには、どのようなことをすれば良いのでしょうか。経験的には、読書になるようです。この読書の要諦は、ジャンルにかかわらず、多読することにあるようです。多読をすると、本当に大切なことが見えてくるというのです。一定の量を読めば、納得のいく「当たり」の本に出合うことがあります。1冊に向き合うよりは、乱読が推奨される理由になります。また乱読でも、2冊から3冊を併読すると、別々の本に書かれている内容が、干渉しあったり融合しあったりして、新しい知識や理解が生まれます。この新しい理解が、読書の楽しみになります。読書の役割には、知的好奇心を満足させるものがあります。特殊的好奇心と拡散的好奇心を満足させるわけです。ここでは、特に拡散的好奇心に重きを置いたほうが良いようです。収束的に情報を集める特殊的好奇心は、AIなどのデジタルツールによって、すばやく満たされる環境ができています。でも、興味の範囲を広げる広散的好奇心については、デジタルツールでは満たす環境に至っていません。驚きや新しい情報を求める姿勢やスキルが、現代では重要になります。このことを実現させるものが、多読ということになるようです。

 子どもの遊ぶ姿を観察すれば分かるように、子ども達は、遊びながら知的にも、身体的にも、そして社会的にも成長していきます。日々新しい情報を取り入れ、自分の持っている知識を更新させながら、成長し続けていきます。発達心理学者ピアジェは、「調整」と「同化」について話しています。発達の重要な側面であると考えている(情報を取り入れる)ことが、同化です。そして、自分の持っている知識が新しい情報によって変更されることは、「調整」になります。これらが繰り返されながら、人間は成長していくわけです。好奇心も、同じような繰り返しが行われます。収束が終わって退屈になれば、新しいものや変化を求める拡散的好奇心に移行します。面白さも、収束と拡散を繰り返すことで維持されているわけです。収束と拡散の切り替えを、うまくできる人は常に何か面白さを感じることができます。この面白さを常に生み出すには、今までの興味、関心とは異なる情報を与えてくれるものにアクセスする機会を持てば良いことになります。新聞、書店、図書館などでいろいろな情報に接すると、自分の興味とは異なっているが面白いものはたくさんあります。ものの見方を少し変えてみれば、新しい経験ができます。ある人が、「恋というものは、不安定な状態に置かれていると燃え、安定した状態がつづくと崩壊する」と言っています。崩壊しても、物事に飽きても、新しいものを見つければ、面白いことを体験し続けることもできるのです。

 最後になりますが、いったん本を読み始めれば、好奇心はどんどん旺盛になっていきます。本を「なぜ?」「どうして?」と考えながら読めば、それだけ考える力が磨かれるようです。アウトプットを意識すると、より上質な読書ができます。アウトプットしながら、誰かに情報を発信することは、自分の中で知識を整理することにもなります。課題を取り上げて書くときは、そこに新たな解決策が見出されるケースも増えてきます。もっとも、ひねり出すという要素も強いのです。ひねり出される解決策がでてくれば、楽しいものです。自分の引出しが整理され、次にひっかける情報や知識を待ち構える体制ができるわけです。一つの課題を書いていると、その課題作成に使わなかった素材の中から、次の課題の素材が、1~2ぐらいが見つかるものです。これが、次の種になります。種を発見できる仕組みを持てば、楽しく、面白い生活が可能になります。注意すべきは、「ズレ」との距離をどのように取るかだけのようです。

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